71 つつじの頃
その一、みつくりの話
少年時代、つつじが燃える頃の思い出は、「怖い」という印象だった、と云うのは奈良橋のIさんです。
「山へ行くな、箕作(みつく)りに殺される」
この時期は、農家の最も忙しい季節で、親たちは一日中、農作業や養蚕に励んでいたので、子供をいつも見守っているわけにはいきません。心配が、少しばかりおどしや禁止を言わせるのです。
つつじの咲く頃、お諏訪山(今の多摩湖病院のある付近)にしょうろ(松露)という茸がた墓ん生えました。松山が多かったので、毎年同じ場所に生えるのを、ほうけないうちに取りに行ったものです。
そこに箕作りの人がいたことがありました。村の人はその箕作りを山窩だと云っていました。
大正九年か十年のことです。腕の太さぐらいの楢の木を三、四本、立木のまま上の方を寄せ集め藤蔓(ふじづる)で結(ゆわ)えて簡単な小屋を造り、三、四十センチほど土を掘って火を燃していました。屋根になった梢は日除けで、雨漏りがするので、夜はお宮の縁の下や、お寺の軒下に寝ていたようです。ボサボサ頭の五十がらみの男で、棒縞(ぼうじま)の筒袖(つつそで)を着て、短い股引にわらぞうりをはいていました。
箕作りというのは、箕直しとも言い、農家で使う箕を繕う仕事をしている人で、農家を一軒一軒廻っては注文を取っていました。修繕の材料には藤を薄くそぎ、桜の木の皮を剥いで使いました。その頃は、この辺の山にも桜の木があって、皮がはぎ取られているのを見かけたものでした。Iさんがみつくりを見たのは、一年だけでしたが、以前は多かったそうで、おとな達が「今はあまり来ないな」等と言っているのを聞いたといいます。
農家では、茶摘みから夏までの間は里芋がおやつ代りでした。量産が出来るので、ヨゴイモ(えごい里芋のこと)というあまり味の良くない芋を作って食べていました。このヨゴイモをみつくりの人に振舞ったことがあります。食べたあと、残りの芋の皮をむいて真竹の筒に詰め込み、あとでこの筒からほじり出して食べるのだそうです。Iさんの記憶では、何でもよくモグモグと食べていたと言うことでした。
つつじの頃、しょうろ掻きに行って見た珍しい思い出話です。
その二、血とりとつつじの山
「山にはエラ(たくさん)、つつじがあったなあ。五月になると、そりゃきれえだった。原の方からも見に来たもんな」
湖底の村で生れたおじいさんは目を細めます。貯水池が出来る前は、狭山丘陵一帯に山つつじが自生して毎年淡赤い花を咲かせました。
その頃になると子供たちは、ついつい花に引かれて山へ入りたくなります。親たちは心配して、
「血とりが出るだから、ひとりで山へ行くでねえよ」
と、止めます。血とりは子供をつかまえて、血を取ってしまうのだというのです。
「血とりは箱を下げてるだよ」
ちょうど肩から箱を下げた見知らぬ人でも来ようものなら、子供たちはバラバラ、バラバラ先を争って逃げたものです。物売りか、植物採集の人だったかも知れません。
「血とりがこの道をこう行った」
「あの麦畑の所にいたとよ」
先年、子供たちの間ではやった「口裂け女」のように、噂が口から口へ伝わると、子供たちは背筋をぞくぞくさせました。
それでも山は子供たちの楽しい遊び場です。つつじを取りに近くの友達と連れだって出かけて行きました。つつじは枝ごと折って来て、花だけ集めて塩で揉んで食べました。うすら甘くておいしかったそうです。紫色の花は毒だと言われていました。女の子は赤い花をおさんかくしの茎に通したり、紐や糸に通してたすきにしました。それは着ている紺の絣(かすり)によく似合いました。
紫色のつつじは、この辺では三つ葉つつじと言っています。また狼つつじと言われていた種類も、赤や黄の花を咲かせていました。今でいう、れんげつつじです。狼つつじは、火事を呼ぶと言って敬遠されました。
「ばけっぱな」と言」って屋敷内に植えるのは厭がったものなのに、今は珍しがって皆庭に植えてるね、とは、或るおじいさんの話です。
山つつじは、二メートルぐらいにも成長しました。貯水池が竣工した当時は、今のように桜が呼びものではなく、むしろ、つつじ見物を謳ったと言います。
市の花につつじが制定されたのも頷かれることです。
あんなに美しかったつつじがなぜ今のように少なくなったのでしょう。町の都市化につれて花盗人が荒してしまったのでしようか。
ある人は、戦中戦後の燃料不足の時にそれこそなめるようにしたくず掃きや、粗朶づくりのせいで、苗が鎌で伐られたことも一因かも知れないと言いました。
昔は山の木を薪にするためよく伐ったもので、大木にしなかった為に陽がよく射し込んでつつじが大きく育ったとも言います。今は木を伐ることもなくなったので、つつじが伸びないのだそうです。
いろいろな原因があってのことでしょうが、燃えるようだったという美しいつつじの山が、また戻ってくればいいと思いますね。
その三、玉湖神社の祭
つつじの咲く頃になると、玉湖神社のお祭りに行くお年寄りたちが芋窪の坂道をうれしそうに登って行くのを、今でもありありと思い出すという人が居ります。
山口貯水池が竣工して記念行事が行われたのが昭和九年四月一日、そのあと七月から玉湖神社の建築が始まりました。
昭和六年頃、折からの不景気の対策として若槻内閣が官公吏の給与を一割カットしたことがありました。そこで浮いた工事費で、この社と俗に濫ッ富士と言われた狭山富士とが造られたのです。
神社の建立は東京市会議員が熱心に推進し、山の神と水神をまつることになりました。一万五千円の費用をかけて伊勢神宮を模した社殿が出来上り、御神体が祭り込まれたのは翌年の一月二十八日の夜九時頃のことでした。
東京市の助役や水道局長、周辺各村の代表等が参列しました。皆、白い装束に身を包み、狭山富士の麓から行列をつくって、たいまつを頼りに静々と進みます。行列の中央に、御神体を守る豊鹿島神社の神官が白い絹の几帳(きちょう)に囲まれて歩を運びます。一様に穿いた白い草履が夜目にも清げでした。この草履は安産のお守りになるというので大切に納めて置いたということです。この時参列者には記念として素木(しらき)の枡(ます)が贈られました。
その後、毎年五月十一日、山につつじが咲き始める頃大祭が行われました。境内では巫女(みこ)さんが荘重にお神楽(かぐら)を奉納します。大国魂神社から星野祢宜(ねぎ)が出張してくれました。
山口貯水池の事務所前の広場に舞台をつくって、東京から芸人を招いて余興が行われました。素人演芸のこともありました。場所柄と水道局の関係で祭は昼間だけで切上げましたが周辺からも大勢の人が集って賑やかでした。この季節には南風が吹くことが多く、露店商が寄付した花火が景気よく上がると北の方角によく聞こえました。そのせいばかりではないでしょうが三ヶ島の見物人が多かったそうです。
来賓には四阿(あづまや)を席にして水道局の職員が接待をしました。職員にも洩れなく酒肴や赤飯に折詰等が出て楽しい一日でした。
玉湖神社は、あかがね葺の社殿といい、当初から揃っている立派な狗犬や鳥居といい、「さすが東京市水道局という財産家の屋敷神」といった感じでした。
屋根の銅板は戦後良からぬ者の注目の的になったので夜警をつけたこともありました。昼間から堂々と作業員のふりをして、近くを走る電話線まで切り取って行く不届者(ふとどきもの)がいた頃です。
終戦直後、横田へ進駐して来た米軍によって、下貯水池の事務所が接収されました。立川、豊岡、所沢からも米軍人がやって来て冬はゴムボートを浮かべ、夏は水遊びや水上スキーなどに興じているのをお腹をすかせた日本人はただアレヨアレヨと見守るばかりでした。接収は二十七年まで続きました。その間に貯水池愛護会が発足し、俳句会、駅伝、機関誌発行、と活動が繰り広げられて、神社のお祭りも愛護会のバックアップで盛り上って来ました。
時代が移り、公共体で神様をまつることが問題になりました。そこで昭和四十二年の十二月、ご神官の御祈祷のもとで、丁重に高天原(たかまがはら)にお帰りいただいたということです。
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